12月23日、私の目の前で娘の心臓が止まった日。
10日からのコロナ感染による発熱が長引き体力が落ちた中でのあの寒さ。温かい車内から出た途端冷たく強い風が娘の体を容赦なく吹き付けた。。
院内の待合室で診察を待ってる間の突然の心停止。弱っていた身体に、あの冷たく強い風が堪えたのでしょうか。車内で仮診察をした医師も驚き言葉を失った急変でした。
処置室から出された私には中の様子は全く分からず、突然の出来事に涙さえ出ず、なんで毛布でくるんで来なかったのか、なんで身体をさすって温めてやらなかったのか、なんで、もっと早く、この病院に連れてこなかったのか、ただただ後悔ばかりが押し寄せていました。
長い長い時間でした。ようやく医師から診察室に呼ばれ、待っていた言葉は想像をかけ離れたものでした。「心臓マッサージを続けていますが30分経過した現在も心拍は戻りません。処置には苦痛が伴います。30分が限界と言われていますがどうしますか?」
「どうしますか?」
答えの出せる親が居るのでしょうか。。
そんな真っ白な時間が流れていく中で40分が過ぎた頃、娘は戻ってきたんです。奇跡でした。
呼吸器がつけられすぐにICUに入りましたがコロナ禍のためそこからは面会出来ず、ICUの待合に居させてもらうのが精一杯。
待合のソファでただ手を固く固く握りしめていました。担当医師からの説明を聞いた後「持ち堪えますよね?」との問いかけに「厳しいです。例え、奇跡が起きて命が助かったとしても、もう、食べることも、笑うことも出来ないでしょう。」
娘は生後すぐに脳に障害を追い自分で動くこと、言葉を話すこと、自由を失いました。それでも、可愛い笑顔と、刻み食ではあったけれど、食べる喜びは残してもらえた。それなのに。
それなのに、神さまは、それさえも奪おうとするのかと、絶望した夜でした。
日付けは変わり24日、クリスマスイヴになっていました。
それでも。
それでも、どうか命だけは。ただただ、祈りました。1日が過ぎ、2日が過ぎ。。。
面会出来ないまま待合で5日目、娘の生命力を信じて賭けた人工透析の処置が成功してとりあえずの命が繋がれました。
奇跡は何度でも。そう信じた日でした。
1日15分の面会が許可され、希望を取り戻したのも束の間。。。
年が変わり1月3日。
人工透析のカテーテルからの感染症が疑われ一旦チューブを抜かなければならなくなりました。そのタイミングで全身の詳しい検査もすることに。。
検査の結果、医師から告げられた言葉はあまりにも残酷で、神さまを、自分を、恨みました。
呼吸器が外せないので正確な判定ではないけれどほぼ脳死状態、またはそれに近い状態。
再びいつ、心臓が止まるか綱渡りのような毎日の中、家族に会えないまま逝くよりは一般病棟に移って、短くても家族との時間を過ごして最期の時を迎えた方が娘にも私たち家族にも幸せなのでは。そう提案されました。ICUを出て一般病棟に移るということは、人工透析もやめ、他の積極的延命処置を行なわない、ということでした。
1月5日、娘は、一般病棟に移りました。
夫と、ふたりで出した答えでした。。
肺には水が溜まり、お腹の中は止まらない出血で血液が一杯になり、脳はパンパンに腫れ上がっていました。
どんなにか苦しかったでしょう。
すぐにでも、呼吸器を止めてあげるべきなんじゃないだろうか。。
でも、それは出来なかった。わずかでも奇跡が起きるかもしれない。。エゴなのか。。その答えは、今でもわかりません。
一般病棟に移ってからの18日間、娘は奇跡を起こし続けました。
オシッコは出ないままでしたがうんちさんを出して老廃物を出し、危険な数値をどんどん下げました。
ICUでは日に数回だった自発呼吸が、リズムよく1日中出来るようになりました。
そして、意識もないまま、初潮を迎えました。
医師も驚き、もしや、脳死ではなかったのかも、と疑うほどでした。
看護師さんが「お母さん、私もう子供じゃないよ、だから心配しないで」そう言っているんだと思いますよ、と。「大人の階段、急いで登ったんだね、頑張ったね」と娘を沢山褒めてくれました。
呼吸が止まったあの冷たく寒い日から、ちょうどひと月、娘は逝ってしまいました。ちょっぴり笑って眠っているかのような、穏やかな、可愛らしいお顔で。
私たち家族が覚悟する時間を、娘が自分の苦痛と引き換えにくれたのだと、そう信じています。
「生きたい」
そう強く願った娘の想いを、私たち家族が引き継がなければ。。
そう思っています。
人は亡くなると自由になれると、障害もなくなり、ご飯も自分で食べられるようになると聞きました。
食べる事が大好きだった娘、好きだった食べ物は勿論、今まで食べられなかった物も沢山食べてほしくて、毎日3食、オヤツもね、あれもこれもと、何を作ろうか、お菓子は何がいいかな、と考えては作ったり買ってきたり。それが今の私の生きる糧になっています。
写真に残すのは最近ようやく、な感じだけど、クックパッドのレシピをお借りすることもありました。
私は霊感が少しあるようで、子どもの頃から目で見たことはないけれど、音や物が動いたりなど沢山経験していて、死後の世界や生まれ変わりなど信じています。
末っ子がお腹に宿った時、年齢やリスクを考え産まない選択を決めた夜、4歳位の男の子が満面の笑顔で「お母さん、ボクだよ」とだけ言った夢を見ました。その子は今の末っ子の顔ではなかったけれど、きっと、「お母さん、産んでね」と言っているのだと、出産を決意したんです。
末っ子は言葉が早く、まだ2歳にならない頃、娘の事を妹だと言い張る事がありました。「赤ちゃんに見えるけど、先に産まれているんだからお姉ちゃんなんだよ」という私に、不思議な話しをしてくれたのです。
本当は末っ子が先に産まれるはずだったけど、娘が歩けなくなったから末っ子がおんぶして連れてきたこと。そして、もう少し早く末っ子も産まれるはずだったけど、私が娘のお世話で大変そうだったから少し遅くしたことなど、辿々しい言葉で一生懸命話してくれました。
娘が逝ってしまってから、私には娘を感じることが出来ず、やっぱり、人間は死んだらただ、無なのじゃないか。魂などありはしないのではないか。こうやってご飯をお供えする事に意味はないのでないのか、こんなのは昔の人が残された遺族の慰めのために作った作り話しではないのか、そんな風に日に何度も泣いてはその度に末っ子が、「○◯ちゃんはここに居るよ!ご飯美味しいって言ってるよ」と慰めてくれました。
娘を感じることが出来ないまま、四十九日まであと数日、という夜、寝るために末っ子と部屋のドアを開けたら、なんとも臭くて。すると末っ子が「ねぇ、◯◯ちゃんのウンチの匂いじゃない?」と。まさに、娘の匂い。
そして次の日も同じ匂いが夜、寝る前に。
◯◯ちゃんが居ない、と泣く私に、これならさすがのお母さんも気付いてくれるかな?と一生懸命考えてくれたのでしょうか。「お母さん、私、ここに居るよ」そう伝えてくれたのでしょうか。
その後はその匂いはしませんでしたが娘は近くに居てくれる、と少し元気になれました。四十九日を過ぎたら、魂はお空に行くのですよね。それでも、娘はいつも私のそばに居る、そう信じる事が出来るようになりました。
四十九日が過ぎた日の明け方、5時に目が覚めました。うっすら娘のウンチの匂い。笑ってしまいました。「◯◯ちゃん、居るの?お空に行くんだね。お母さんはもう大丈夫だから心配しないで。お母さんの幸せは◯◯ちゃんが笑っている事。今までもこれからもそれは変わらないよ。お空の上で楽しく暮らしていると信じているからね」そう言うと、私の上に温かい空気がふあっと降りてきて、私を包み込みました。「最後の抱っこだね。◯◯ちゃん、大好きよ。行ってらっしゃい」そうして温かい空気はフッと消えていきました。
娘が、最後に私に会いに来てくれたと、信じてもいいですよね☺️
まだ、涙の出ない日はないけれど、少しずつ少しずつ、前に進んでいます。
クックパッドもそろそろ再開しようと考えています。
これから毎年、クリスマスが近づくたび、お正月を迎えるたびにあの苦しかった日々を思い出しては涙するのだろうけど、娘が精一杯、生きた日々の証でもあります。いつもうるさいくらい笑ったり泣いたり怒ったり、そんなお母さんが大好きだったはずだから、これからも、うるさいくらい笑って泣いて怒って、そんなお母さんであり続けたい、そう思います。
長くなりましたが、文章に残しておきたくて。こんな記事、このクックパッドのブログには相応しくないと考えましたが、私にはここしかなくて。
最後までお付き合いくださった方々、ありがとうございました。
そして、コメントやつくレポなどで励ましの言葉をかけて下さった方々、本当に感謝しております。ゆっくりお返事させていただきますね。ありがとうございました。